2006年9月20日水曜日

『オクシタニア』

(佐藤賢一)



時は13世紀。現フランス南部「オクシタニア」と呼ばれた豊穣の地には、異端カ
タリ派の教えが広まっていた。同地の有力諸侯トゥールーズ伯ラモン6世によるローマ教皇使節殺害を契機として、北フランス諸侯による十字軍が組織される。破竹の勢いでオクシタニアを制圧するシモン・ドゥ・モンフォール。うだつのあがらない元田舎貴族を支えたのは神が自分に味方するという絶対の自信だった。



一方、独立の気風で侵攻を阻もうとする都市トゥールーズ。カタリ派とローマ教会が混在するこの都市に、民兵隊長のエドモンと、カタリ派に傾倒していく妻ジラルダがいた。そして、盟主ラモン7世は、父が騎士シモンに奪われたオクシタニアの領土を回復していく。神は助けてはくれない、そんな思いを胸に。



神とは、何か。聖と俗、生と死が絡み合う抗争の中で、彼らが縋る信仰とは何なのか。

 



久々の佐藤賢一さん♪
いやぁ、長かった!いやいや、面白かった^^。

当時の世相、聖と俗の利害や力関係などが盛り込まれたストーリー展開は本当に天晴れ。やはり、状況が複雑なだけに、少々説明が延々と続いてしまう部分はありましたが、それでも、脱帽。



異端カタリ派と正統カトリックの論争が、夫と家を捨てて異端に走った女、妻のことを分かってやりたくて神との対話を選ぶ男、神を信じず自らの力だけを頼りに野望を抱く男、これら3人の個性あふれるキャラクターの対決に置き換えられているような感じですね。

カタリ派の教えは、やはり正統カトリックが腐敗したからこそ出てきた教えで、確かに作中にあるような生そのものを否定する教えに未来はない、というのが正論かと。でも、冒頭、オクシタニアの戦いを回想する老僧が語るように、異端とただ退けられるべきものでもない、というのも、そうだよなぁ~と。



それぞれのキャラクターを通して語られる「神」の像は、どれも全部共感はできないけれど、それぞれにグッと惹き付けるものがあります。こういうのが宗教の魅力になっているのかなぁ、と。しかし、俗界との関係で言えば、宗教は大義となり、そして意地になっていく。ものすごい肩に力が入って読み進んでいた私でしたが、そうした人々の心理と聖と俗の現実を看破したエドモンの終盤の言葉で、私もなんかストンと拍子抜けしてしまったような感じでした。あの感覚、是非皆さんにも感じてみて欲しいです^^。



ちなみに、私は母方がキリスト教で、その教えも本当に素晴らしいものだと思いますが、洗礼も受けていないしこの先も受けないでしょう。なぜならば、神の存在をまったく信じていないから^^;。そういう意味では、ラモンが一番共感できました。どうしてもけったいな(?)関西弁と相容れなくて、感情移入しきれなかったのが残念(笑)。



ちなみに、女性が虐げられているシーン(性的にも思想的にも)も多く、中世はこういうのが普通な面もあったろうなぁ、とスルーできない方にはオススメできません。ま、これは著者の作品ではいつものことですが・・・。



以下、ネタバレ反転



最後のジラルダの達する心の境地が、かなり不満。あれだけ蓮っ葉なことして、最後には「女は男に寄りかかるのが一番心地良い」みたいな結論。おーい・・・あんたの一生なんだったのさ・・・。この世の生とか、男女の睦み合いに価値を置かないカタリ派の教えとの対比であることは分かるが、あまりにもなぁ・・・。



(新潮文庫)



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